顕正会の誤りについて:浅井理論の限界

顕正会の誤りについて

顕正会版日寛上人本尊は顕正会自作のニセ本尊です! 顕正会版日寛上人本尊には、本物と相違する決定的な証拠を残しております。 その真実をお教えいたします。パソコンの方はメールフォームで、携帯の方は管理人宛のコメントでご連絡ください。 ただし、現役顕正会員に限ります。          

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浅井理論の限界

ブリトー君がまたもや反論しておりますが、堂々巡りで何の進歩も無い…。

これが浅井理論の限界なのでしょう。


私は既に「戒壇の事と義12および13」にて、

「これは上記、浅井会長が引用した御講義の後年に著述された文章でありますが、ここにおいても日顕上人は
『なかんずく本門の本尊所住の義理が事の戒壇にあたる意味において義の戒壇とし、これにたいし三大秘法抄のいわゆる、「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪―乃至―大梵天王・帝釈等も来下して踏給うべき戒壇なり」の文を事の戒壇とされたのである。
(中略)
故に本門の本尊所住の処、義の戒壇といわれるのは、戒壇の大御本尊の「事の戒壇」そのものと、その他の山寺の本尊の「義理事に当る」関係及びその意味を露わにせず、一般論的な所住に約して、義理、事の戒壇にあたる意を表とされたのである。』

として、文上は日寛上人が「義」の戒壇とされていることは認めていらっしゃるのです。

ですから、浅井会長の引用のみを見て日顕上人が日寛上人が一切「義」の戒壇とは言っていないと誹謗するのはおおいに間違っております。

また、浅井会長の上記引用部分の後段の文証を挙げての誹謗もまたピントがずれている…、つまり日顕上人は事相に約しての捌きにおいては「義」であることをいったんお認めになられたうえで、法体に約しての捌きにおいては日寛上人が「戒壇の大御本尊様の所住をあげて“義の戒壇”とは仰せになっている箇所はない。」と述べておられるのです。」


「要は、戒壇の大御本尊様は人法一箇の当体であられるがゆえ、その御在所にはまさに戒壇を建立すべきであるとするのがここでの意でありましょう。このことを日寛上人は文底秘沈抄において既に述べられております。顕正会員はよくよくかみしめて拝すべきでありましょう。」


「そして、浅井会長が引用した「是れ義の戒壇なり。」「即ち義の戒壇なり。」は未だ戒壇の建立はなくとも、「本尊所住の処」および「題目修行の処」は戒壇と見るべきであるということであり、これもまた上記に引用した法華取要抄文段、寿量演説抄と意味は全く同じであります。

結論として、くどいようですが、これらの引用文においての「義理」とは、戒壇という建物自体は未だ存在しないが、御本尊様の御在所は戒壇と捉えるべきである旨の、本宗における戒壇の意義について説かれているのであって、浅井会長の主張するところの、“嫡々書写の御本尊との同じくくりで義の戒壇に分類すべきである。”との証明にはならないのです。したがいまして、この御文を日顕上人への対抗手段として使用することは全く的外れなのです。むしろ日顕上人も仰せになっておりますが、“むしろ本門戒壇の本尊の処義理の戒壇でないことを決し給うている。”というのが正しい解釈の仕方でありましょう。」


との根本的な考え方を提示しているのです。しかし、浅井理論並びにそれを踏襲するブリトー君からはそれを超える批判は未だなされていません。


すなわち、

「広宣流布以降、以前における戒壇の大御本尊様の所住は事中の事と義であり、嫡々書写の御本尊様の所住の義と同じ括りにしてはいけない。名が同じだからといって、その名に迷ってはいけない。」

ということなのです。


これが浅井理論の限界であり、


迷いの根本なのであります。


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