顕正会の誤りについて:世界宗教だから国立戒壇はない 2

顕正会の誤りについて

顕正会版日寛上人本尊は顕正会自作のニセ本尊です! 顕正会版日寛上人本尊には、本物と相違する決定的な証拠を残しております。 その真実をお教えいたします。パソコンの方はメールフォームで、携帯の方は管理人宛のコメントでご連絡ください。 ただし、現役顕正会員に限ります。          

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世界宗教だから国立戒壇はない 2

浅井会長はまず教行証御書や報恩抄の一節を引いて、この仏法が全世界に広まることを提示し、その上で以下のように申します。


『このように、全世界の一切衆生が成仏を遂げさせて頂ける大法、全人類が信じ唱え奉る「本門戒壇の大御本尊」を守護申し上げるのが、三大秘法有縁の日本国の使命なのである。これを「守護付嘱」という。そしてこの付嘱の責務を果す具体的顕現が、実に国立戒壇なのである。』(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む197ページ)


この赤字の部分が多少強引かと思われますが、守護付嘱を引っ張り出してきたのは天晴れかと思うわけです。


この守護付嘱は国主たる者に別して与えられた付嘱であり、そこには勿論のこと、仏法を守護するためには国主のみに許された権限を行使することを念頭に置かれているのは疑う余地はありません。


この後に浅井会長が引用した立正安国論の一節の前には、


「其の上去ぬる元仁年中に、延暦・興福の両寺より度々奏聞を経、勅宣御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしめ、法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ。」(御書 243ページ)


として、勅宣と御教書が念仏の邪義を誡めるために出された事例を示されております。



すなわち、国主には我々国民が持ちえない権力が認められているがゆえ、その国主がこの信仰を持ち、三大秘法抄の「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」との不自惜身命の想いの上に、麗しき僧俗一体の姿を顕した時こそ、真の仏国土が実現するということでありましょう。


そこには、いざとなれば仏法守護のためには、国主としての持ちうる権限を行使することも当然のことながら含まれていると考えるのが自然でありましょう。



まぁ、なんだか今日は浅井会長の擁護のような内容になってしまいましたが、認められるのはここまでであります。


明日からは浅井会長の強引な論法をビシビシ批判していきたいと思います。



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  • 2012.02/09 13:20分 
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名を正さんのみ 

トチロ~様を援護できるかどうか・・・。

孔子様は正名論者でした。名には体に至る徳があります。弟子達や春秋時代の国主たちは、「子の迂なるや・・・」と、孔子の政策論にまどろっこしさを感じます。

破邪立正安国の原理も同じで、邪を討つことなくして国家も人も安穏とはなりません。国立戒壇という言葉を、その名を正すという考えから分析してみますと、国立という言葉に力点がかかって来ます。

なぜならば、戒壇は大御本尊様を御安置申し上げ、授戒する場所ですから・・・。義理のたて分け云々の議論もありましょうが、国立という言葉に焦点をあてなければ、昭和40年代のあのころの雰囲気が理解できないとおもうのであります。

公明党の活動は、浅井さんのいう国立戒壇建立のための政党だったのです。実は。学会は牧口さん・戸田さんはものすごく右寄りな思想の持ち主でした。公明党の真意はまさに浅井流の、勅宣・御教書の獲得にあったと思うのです。

ですが、終戦から20年が過ぎ、世は安保闘争真っ只中の左寄りの時代が来ました。さて…と、いうことだったんではないでしょうか。




ポリ銀さんへ 

私は最近思うのですが、戦前の天皇陛下の立場を車の運転に例えると、「自らがハンドルを握るドライバー」だったのではないかと思うのです。

一方で、戦後の天皇陛下のお立場は「教習車の助手席に座る教官」だと感じるのですよね。

つまり、「ハンドルさばきや、アクセルを踏むことは国民に任されている。しかし、最後のブレーキだけは天皇陛下がやはり握っている。」ということなのだと思うのです。

これを法律を変え、天皇陛下自らに運転席に座っていただこうという考えもあるわけですが、この教習車の助手席に座られたお立場のままで、大聖人様の御心に叶う仏国土実現の方法とは何ぞや?

と考えることもまた大切なことであるかと思うわけです。

もしかすると、そこに今まで我々の考えが及ばなかった、大聖人様の深い御心に触れる機会があるのではないかとも私は思うものです。

前者的な考え方は顕正会でなされていますし、今回のポリ銀さんのコメントからは、学会もまた同様の考え方をお持ちであったことも推察されます。

ただ、私がこの8年の間に感じたことは、御宗門は明らかに後者の考え方をされているのではないかということでした。

また、色々とお話を聞かせてください。コメントありがとうございます。


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