顕正会の誤りについて:折伏に関する御指南 2

顕正会の誤りについて

顕正会版日寛上人本尊は顕正会自作のニセ本尊です! 顕正会版日寛上人本尊には、本物と相違する決定的な証拠を残しております。 その真実をお教えいたします。パソコンの方はメールフォームで、携帯の方は管理人宛のコメントでご連絡ください。 ただし、現役顕正会員に限ります。          

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折伏に関する御指南 2



一念三千法門                                  



妙法蓮華経と唱ふる時心性の如来顕はる。耳にふれし類は無量阿僧祇劫の罪を滅す。一念も随喜する時即身成仏す。縦ひ信ぜずとも種と成り熟と成り必ず之に依って成仏す。妙楽大師の云はく「若しは取若しは捨、耳に経て縁と成る、或は順或は違、終に斯に因って脱す」云云。日蓮云はく、若しは取若しは捨、或は順或は違の文肝に銘ずる詞なり。法華経に「若有聞法者」等と説かれたるは是か。既に聞く者と説かれたり、観念計りにて成仏すべくば若有観法者と説かるべし。只天台の御料簡に十如是と云ふは十界なり。此の十界は一念より事起こり、十界の衆生は出で来たりけり。此の十如是と云ふは妙法蓮華経にて有りけり。此の娑婆世界は耳根得道の国なり 
   
(御書一〇九ページ十四行目) 



 『一念三千法門』には、「妙法蓮華経と唱ふる時心性の如来顕はる」。この「心性の如来」というのは、我々衆生の命の中に本来的に具わっている仏の心をいうのです。つまり、仏性のことです。



 この御文の意は、どういうことかと申しますと、妙法蓮華経と唱えることによって御本尊様と我々が境智冥合、感応道交するということです。すなわち感応道交の「感」は、衆生の機感、「応」は、仏の能応です。つまり、これらが一道に交わって我々の命の中に仏界が現れてくるということです。ですから、妙法蓮華経と唱えるときに、冥伏していたところの仏性が必ず現れてくるということです。




 「耳にふれし類は無量阿僧祇劫の罪を滅す」。ここに「無量阿僧祇劫」とありますが、この「阿僧祇」とは無数の意で、「劫」は極めて長い時間ということです。つまり、これは計ることも数えることもできないくらい長い時間ということです。




 したがって、無量阿僧祇劫という長い時間の様々な罪を、妙法蓮華経が耳に触れることによって滅していくことができると、このようにおっしゃっているのです




 「一念も随喜する時即身成仏す」。ましてや、妙法を唱えて一念も随喜の心を起こすならば、まさに即身成仏していくということです





 それから、この後が大事なのです。「縦ひ信ぜずとも種と成り熟と成り必ず之に依って成仏す」。これは聞法の功徳を説いているわけであります。ですから、たとえ信じなくとも成仏すると仰せられているのです。




 例えば、他の人に向かって折伏をするけれども、相手は耳を塞いでこちらの話を聞こうとしない場合があります。しかし、話をすることによって、相手の心田に妙法が植えつけられるわけです。つまり、耳を通して下種をするのです。妙法を聞かせることによって、それが、いずれ種となり熟となって成仏をしていくのであると、このようにおっしゃっておられるのです。





 我々は、とかく折伏をしても相手が話を聞いてくれないから「あの人はもうだめだ」と、このように勝手な判断をしてしまいますけれども、そうではないのです。聞法下種ですから、法を聞かしめる、相手の耳に触れさせることによって、それが必ず種となるということをおっしゃっているのです。





 ですから、相手が話を聞こうが聞くまいが、法をしっかりと説いていかなければだめなのです。それを我々は、どうしても自分の勝手な判断で、相手の本当の心が判らないまま、途中で折伏を諦めてしまうのです。あるいは、ひどい人になると「あの人は、いくら言ってもだめですよ」と、勝手に自分で折伏を退いてしまう。このような人はいないと思いますが、これは本来の姿ではないのです。





 大聖人様が「縦ひ信ぜずとも種と成り熟と成り必ず之に依って成仏す」とおっしゃっておられるのでありますから、我々は多くの人の心田に妙法を植えつけていかなければならないのであります。つまり、妙法を耳に触れさせていくことが大事なのです。





 「妙楽大師の云はく『若しは取若しは捨」。「若しは取」とは、これは私たちの話を純粋に聞いてくれる順縁の人のことです。それから「若しは捨」とは、これは話など聞きたくないという逆縁の人のことです。





 「耳に経て縁と成る、或は順或は違、終に斯に因って脱す』云云」。ですから、相手が話を聞こうが聞くまいが、耳に触れていけば、それが縁となって、順縁の人も逆縁の人も、いずれ必ず成仏をしていくのです。「終に斯に因って脱す」というのが成仏をするということです。したがって、


  「力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(御書六六八ページ)


と仰せのごとく、妙法をしっかりと説いていかなければだめなのです。





 我々の日常の折伏の中に、このようなことが欠けてはいないか。もしも、思い当たるところがあったとするならば、この御妙判をよく拝して、多くの人に下種結縁をしていただきたいと思います。要するに、たくさんの人に下種をしていくことが大事であるということです。





 「日蓮云はく、若しは取若しは捨、或は順或は違の文肝に銘ずる詞なり」と、大聖人様は妙楽大師の言葉を引かれて、このようにおっしゃっているのであります。




 「法華経に『若有聞法者』等と説かれたるは是か」。この「若有聞法者」は『方便品第二』の文です。すなわち、


  「若し法を聞くこと有らん者は 一りとして成仏せずということ無けん」

(法華経一一八ページ)



ということです。法華経にこのように説かれているのは、まさにこのことをおっしゃっているのかということです。




 「既に聞く者と説かれたり、観念計りにて成仏すべくぱ若有観法者と説かるべし」。この「若有観法者」というのは、「若し法を観ること有らん者は」という意味です。ですから、見ているだけではなく、法を聞かなければだめだということです。





 我々が信心をしている姿を、相手がただぼんやり見ているだけでは折伏にならないのです。皆さん方の周りにも、自分が日蓮正宗の信心をしているということを知っている未入信の方がいるでしょう。家族や親戚、友人、知人、あるいは隣の人などで、まだ信心をしていない方がおられるでしょう。そういう人たちに対して、ただ自分が信心をしている姿を見せているだけではだめなんです。そういう方々に、耳をもって妙法を聞かしめることが大事なのです。




 聞く者の功徳というのは広大であるけれども、しかし見ているだけでは功徳はないのです。ですから、このことを「観念計りにて成仏すべくば若有観法者と説かるべし」と、つまり、もし観念だけで成仏するならば、この経文は「若有観法者」と説いてしかるべきであろうが、しかし、そうではないと言われるのです。ですから、法を聞かせるということが大事なのです。





 「只天台の御料簡に十如是と云ふは十界なり」。これは『御講聞書』の中に、

「されば十如是と云ふは十界なり。十界即十如是なり。十如是は即ち法華経の異名なり云云」

(御書一八二七ページ)




と、このようにあります。また『御義口伝』の中にも、

「十界各々本覚の十如是なれば、地獄も仏界も一如なれば、成仏決定するなり」

(同一八〇四ページ)

と、このような御文があります。この意を取っておられるわけであります。





 「此の十界は一念より事起こり、十界の衆生は出で来たりけり。此の十如是と云ふは妙法蓮華経にて有りけり」。すなわち、一念三千の原理の上から言えば、十界は一念から生じ、その一念の様々なる迷悟の違いによって十種の境界、すなわち十界の境界が現れるのであります。その諸法の実相は、そのまま妙法蓮華経であるということであります。





 したがって、いかなる境界の者であっても、妙法蓮華経を聞かしめることによって成仏をしていくということでありますから、「此の娑婆世界は耳根得道の国なり」つまり、この娑婆世界は耳で妙法を聞くことによって成仏ができる国土であると、このようにおっしゃっているのです





 よって、折伏に当たっては、いかに相手の反対があろうとも「大聖人様の仏法でなければ、本当の幸せは築けませんよ」と、きちんと相手の耳に届くように話をしていくことが肝心です。そのようにしないと「耳根得道」ではなくなってしまうということであります。  

(折伏要文 15~20ページ)     




        
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Comment

 

トチロ~さんご無沙汰してます。

勉強になりました!

聞法の功徳で下種されるということですね。

顕正会浅井会長の逆縁下種の説明は不完全ですね。


理論書だけだとちょっとした間違いのようですが、現場では法を下げる行為になってしまうから恐ろしいですね。


やはり血脈にのっとった信心ではない団体は教義的に微妙なズレが生じ、

その微妙なズレが大きな違いへと変わっていくのでしょうね。

  • posted by セロリ 
  • URL 
  • 2013.10/04 16:51分 
  • [Edit]
  • [Res]

セロリさんへ 

そうなんですよ。

折伏理論書には間違ったことはほとんど書いていないんですよね。

ただ、誤解を生じるような書き方は存在する…。

それをそれぞれの幹部が勝手な解釈で下に指導するもんだから、どんどんおかしな方向に行っているような気がいたします。

少なくとも浅井さん自身は法華講の経験がありますから、何とか体裁は取り繕っているようですが、次の世代になったら完全に日蓮正宗とは別の宗教になってしまうことでしょうね。


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