顕正会の誤りについて:四力成就 1

顕正会の誤りについて

顕正会版日寛上人本尊は顕正会自作のニセ本尊です! 顕正会版日寛上人本尊には、本物と相違する決定的な証拠を残しております。 その真実をお教えいたします。パソコンの方はメールフォームで、携帯の方は管理人宛のコメントでご連絡ください。 ただし、現役顕正会員に限ります。          

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四力成就 1

「ここで大切なことは、御本尊様に具わる仏力・法力がいかに勝れていても、我々が具えるべきところの信力・行力がなければ、その仏力・法力は全く顕現されないのであります。これは「四力成就」と言いまして、我々の信力・行力、また仏様の仏力・法力、この四力が成就することによって功徳をいただくことができるのです。」

(信行要文 三  136ページ)


と、猊下様は仰せです。


仏様が「仏力・法力」を御本尊様として遺してくださっても、それを大いに活かすことのできないこちら側に、幸せになれない根本原因があるということでありましょう。



良医病子の譬でいうならば、“せっかくお父さんが残してくれた薬があっても、それを飲もうとしない子供たちに問題が存在する。”ということです。




「どうやれば子供たちに薬を飲ませることが出来るのだろうか…。」




これが目下のテーマであるということでしょうね…。




せっかくですから、このテーマに話を進める前に、御法主上人猊下の“四力成就”の御指南を拝していきたいと思います。


****************************


 次に「氷は水より出でたれども水よりもすさまじ。青き事は藍より出でたれどもかさぬれば藍よりも色まさる。同じ法華経にてはをはすれども、志をかさぬれば他人よりも色まさり利生もあるべきなり」とあります。


 これは、氷は水からできるけれども、水より冷たい。また、青は藍から作られるけれども、藍よりも青い。これと同じように、法華経を持って信心の志を重ねるならば、すなわち信心強盛に懸命に励んでいくならば、ほかの人よりも法華経の力を輝かせ、功徳を得ることができるとおっしゃっているのです。もちろん、ここで法華経とおっしゃっているのは大御本尊様のことであります。


 そもそも仏法では、祈りをかなえ、成仏するための要として、四つの力というものを示しております。これを「妙法の四力」と言います。妙法蓮華経の四つの力ということであり、信力・行力・仏力・法力のことであります。



 このことについては、日寛上人の『観心本尊抄文段』に詳しく出ておりまして、


  「『信カ』とは一向に唯此の本尊を信じ、此の本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち『信力』と名づくるなり」(御書文段二二八ページ)


つまり、この御本尊以外に成仏の道はないと信ずることを信力と言うのです。そして、


  「天台の所謂『但法性を信じて、其の諸を信ぜず』とは是れなり」(同ページ)


と仰せであります。


 次に行力については、


  「『行力』と言うは、日出でぬれば灯詮無し、雨降るに露は詮無し。今末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し。故に余事を雑えず、但南無妙法蓮華経と唱うるは即ち是れ『行力』なり」(同ページ)


と、一生懸命にお題目を唱えることを行力とおっしゃっております。それから、


  「『法力』と言うは、既に迹中化他の三世の諸仏の因果の功徳を以て、本地自行の妙法五字に具足す。故に此の本尊の力用、化功広大・利潤弘深なるは即ち是れ『法力』なり」(同ページ)


とおっしゃっております。そして、


  「『仏力』と言うは、久遠元初の自受用我が身の当体、自行化他の因果の功徳具足円満の妙法五字を『我本立誓願』の大悲力を以ての故に一幅の本尊に図顕し、末法の幼稚に授与する時、我等此の本尊を受持すれば自然に彼の自行化他の因果の功徳を譲り与え、皆咸く我等が功徳と成し、『如我等無異』の悟りを開かしめたもうは、偏に是れ『仏力』なり。若し仏力・法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや」
                                    (同ページ)


と仰せになっております。


 要約して申し上げますと、信力というのは、とにかく御本尊様を絶対と信じ奉ることです。そして行力というのは、全く余事を雑えず南無妙法蓮華経と唱え奉ることであります。法力とは何かといえば、妙法に具わる広大深遠なる利益のことを言うのであります。また仏力とは何かというと、仏様が衆生を救う誓いを立て、その成就を願うことで、非常に大きな慈悲であります。この四力が成就して初めて、我々は成仏に至ることができるのであります。


 ただし、我々の信心に当てはめれば、御本尊は既に偉大なる仏力・法力を具えられたところの御当体であられます。しかし、その仏力・法力も、それを受持する人の信心の深さ、すなわち信力と、その信心に立った粘り強い実践、つまり行力があって初めて顕れてくるのであります。


 だから、信力が弱く、実践の行力も進まなければ、御本尊の仏力・法力がいかに甚大であっても、その力は顕れてきません。どこまでも、自らの信力・行力を奮い起こし、強盛なる信心を貫き通すことが、一生成仏のためには絶対に必要なのであります。




 このことは『王舎城事』に、

  「弓のつよくしてつるよはく、太刀つるぎにてつかう人の臆病なるやうにて候べし。

  あへて法華経の御とがにては候べからず」(御書九七五ページ)


と仰せの如くであります。また『持妙法華問答抄』には、


  「『唯我一人のみ能く救護を為す』の仏の御力を疑ひ『以信得入』の法華経の教への縄をあやぶみて『決定無有疑』の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。菩提の岸に登る事難かるべし。不信の者は堕在泥梨の根元なり。されば経には『疑ひを生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし』と説かれたり」(同二九六ページ)


ともおっしゃっております。


 この御文から解るように、我々が持つところの御本尊に功徳の差はありません。今日、これだけ大勢いらっしゃっていますが、皆さんの御家庭に安置している御本尊様の功徳に差はないのです。


 では、なぜ我々が頂戴する功徳に差が出てくるのか。功徳に差が出てくるのは、御本尊様の仏力・法力に差があるのではなくして、我々の信力・行力に差があるからなのです。やはリ一生懸命、自行化他の信心に励むということが大事であります。


 また、折伏も同じです。「祈りとしてかなわざるなし」と言われますけれども、祈りがかなうか、かなわないか、つまり折伏ができるかできないかは、結局は我々の信力・行力如何なのです。我々が強盛なる信力・行力を持って行じていけば、折伏はできるのです。


 そもそも、折伏はやればできるのです。できないのは、やらないからなのです。


 先般、お亡くなりになりましたけれども、九州に常智院日浄上人という方がおられました。この方が口癖のように「折伏は、折伏すれば必ずできる」とおっしゃっていました。まことに言い得て妙です。できないのではないのです。やらないから、できないのです。



 ですから、今、宗門が平成二十七年・三十三年に向かって大前進をしている時、先程も言いましたとおり、「一文一句なりともかたらせ給ふべし」で、下種折伏を一人ひとりがしっかりと続けていっていただきたい。「継続は力なり」ですから、途中であきらめず、どこまでも折伏を行じていくということが、極めて大事であります。


 どうぞ、皆さん方はそれぞれの支部にお帰りになったら、このことを支部の皆さんにお伝えして、みんなで本年度の誓願を達成していただきたいと心から願う次第であります。


 今日はこれをもちまして、講義を終了いたします。

(信行要文三 90~94ページ)





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