顕正会の誤りについて:結論

顕正会の誤りについて

顕正会版日寛上人本尊は顕正会自作のニセ本尊です! 顕正会版日寛上人本尊には、本物と相違する決定的な証拠を残しております。 その真実をお教えいたします。パソコンの方はメールフォームで、携帯の方は管理人宛のコメントでご連絡ください。 ただし、現役顕正会員に限ります。          

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結論

前回の御法主日如上人猊下の御講義を見ていきましょう。



「この別付嘱のなかで、中心となるのは結要付嘱であります。」(信行要文 三 68ページ)




なにゆえ中心なのか?




いうまでも無く、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇という三大秘法は、本門の本尊という一大秘法に収まるからです。




この一大秘法たる本門の本尊を付嘱されたのが、インドのお釈迦様から上行菩薩への付嘱であり、また大聖人様から日興上人への付嘱なのです。




つまり、「両方とも三大秘法を付属されている。そしてその実態は本門の本尊である。これが当に同じなのである。」、これを日寛上人は「秘すべし秘すべし。」と仰せになっているわけです。




ここで改めて浅井会長の発言を振り返ってみます。



「また一期弘法付嘱書では、『日蓮一期の弘法』は本門の本尊、『本門弘通』等とは所弘すなわち本門の題目、戒壇は『国主此の法を立てらるれば云々』の文のままでありますから、寛尊は『文の如し』と仰せられ、まさに釈尊から上行菩薩ヘの神力品結要付嘱も三大秘法、また日蓮大聖人から日興上人への御付嘱も三大秘法、そのうえ本尊・題目・戒壇と、三大秘法の説順も全く同じという甚妙を、ここに『全く同じ、秘すべし』と嘆ぜられたのであって、本尊と戒壇が全く同じという意味ではない

(なぜ学会員は功徳を失ったか 66ページ)




この青の部分は「三大秘法」と言ってますが、三大秘法はつづめれば一大秘法になるのであり、日達上人や日如上人猊下の仰ることと全く差異はないのでございます。つまり、批判の体をなしておらんということです。




更には、緑の部分は噴飯ものであり、本門の戒壇は本門の本尊に収まるのであり、「戒壇を含めたところの本門の本尊が付属されているのだから、その本尊おわします処が当に本門の戒壇である。」ということを仰せになっているのが日達上人の御説法なのです。




これは日達上人の御説法を切り文しなければ理解できるところなんです。




しかし、浅井会長はそこのところをはぐらかすために勝手に、『(戒壇は)それと同じだ』と書き加えて、日達上人が依義判文抄を誤読したと見せかけているのですね。




本当に汚いお人でございます。




これはこのお話の冒頭、「日寛上人の六巻抄原文にいかに句読点を付けるか。」という問題に端を発しているのでございます。(参照)



当時広く読まれていた富士宗学要集や日蓮正宗聖典のごとく「戒壇は文の如く全く~」と読み下せば、“戒壇だけを取り上げて「結要付嘱の文に同じ」”との読み方も出来る…。しかしながら、そうではなく、日達上人はそこから一歩進めて、


「釈尊から上行菩薩への付嘱も三大秘法、大聖人様から日興上人への付嘱も三大秘法、しかしてその実態は一大秘法たる本門の本尊。そしてその本門の本尊所住の処は本門の戒壇にあたる。」


ということを御指南くださったわけであります。





今まで難しかったかもしれませんが、様々な角度から戒壇の意義についてみてきました。法華経のどこを見ても、日寛上人の御指南のどこを探しても、「本門の本尊所住の処が本門の戒壇である。」ということが第一義なのです。




事実上の戒壇という建物を建立するということは、その延長線上に存在することであり、「本門の本尊所住の処が本門の戒壇である。」という根本を無視して論を展開してもまったくの無益であり、「木を見て森を見ず。」の愚論なのでございます。




それを日達上人は御存命中に再三にわたって御指南くださっていたのですね。





戒壇の大御本尊様は、広宣流布の後に御遺命の戒壇を建立して御安置するという条件が大聖人様から与えられております。ゆえに未だ戒壇はございません。しかしながらそこに詣でてお題目を唱えるところに戒壇の意義は存するのでございます。



この御本尊を受持することこそが三大秘法を受持することになる…。




以下は分別功徳品の一節ですが、ここに戒壇の意義は全て書かれていると私は感じる次第です。赤字が義の戒壇、青字が大聖人様、緑が事の戒壇ではないかと個人的には考える次第です。



最後にそれを紹介してこの問題に関する一連の考察を締めくくりたいと思います。





又復、如来の滅後に、若し是の經を聞いて、而も毀呰せずして随喜の心を起さん。當に知るべし、已に深信解の相と為す。何に況んや、之を読誦し、受持せん者をや。斯の人は、則ち為れ如来を頂戴したてまつるなり。阿逸多、是の善男子、善女人は、我が為に復塔寺を起て、及び僧坊を作り、四事を以て衆僧を供養することを須いず。所以は何ん。是の善男子、善女人の、是の經典を受持し、読誦せん者は、為れ已に塔を起て、僧坊を造立し、衆僧を供養するなり。則ち為れ佛舎利を以て、七寶の塔を起て、高廣漸小にして梵天に至り、諸の幡蓋、及び衆の寶鈴を懸け、華香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、衆鼓、伎楽、簫笛、箜篌、種種の舞戯あって、妙なる音声を以て、歌唄讚頌するなり。則ち為れ、已に無量千萬億劫に於て、是の供養を作し已るなり。



 阿逸多、若し我が滅後に、是の經典を聞いて能く受持し、若しは自らも書き、若しは人をしても書かしむること有らんは、則ち為れ、僧坊を起立し、赤栴檀を以て、諸の殿堂を作ること三十有二、高さ八多羅樹、高廣厳好にして、百千の比丘、其の中に於て止み、園林、浴池、經行、禅窟、衣服、飲食、 牀蓐、湯薬、一切の楽具、其の中に充満せん。是の如き僧坊、堂閣、若干百干萬億にして、其の数無量なる、此を以て現前に、我及び比丘僧に供養するなり。是の故に我説く。如来の滅後に、若し受持し、読誦し、他人の為に説き、若しは自も書き、若しは人をしても書かしめ、經巻を供養すること有らんは、復塔寺を起て、及び僧坊を造り、衆僧を供養することを須いず。



 況んや復、人有って、能く是の經を持ち、兼ねて布施、持戒、忍辱、精進、一心、智慧を行ぜんをや。其の徳最勝にして、無量無辺ならん。譬えば、虚空の東西南北、四維上下、無量無辺なるが如く、是の人の功徳も、亦復是の如し。無量無辺にして、疾く一切 種智に至らん。


 若し人、是の經を読誦し、受持し、他人の為に説き、若しは自らも書き、若しは人をしても書かしめ、復能く塔を起て、及び僧坊を造り、声聞の衆僧を供養し讚歎し、亦百千萬億の讚歎の法を以て、菩薩の功徳を讚歎し、又他人の為に、種種の因縁をもって、義に随って此の法華經を解説し、復能く清浄に戒を持ち、柔和の者と共に同止し、忍辱にして瞋無く、志念堅固にして、常に坐禅を貴び、諸の深定を得、精進勇猛にして、諸の善法を摂し、利根智慧にして、善く問難に答えん。阿逸多、若し我が滅後に、諸の善男子、善女人、是の經典を受持し、読誦せん者、復是の如き諸の善功徳有らん。當に知るべし、是の人は已に道場に趣き、阿耨多羅三藐三菩提に近づいて、道樹の下に坐せるなり。阿逸多、是の善男子、善女人の、若しは坐し、若しは立ち、若しは經行せん処、此の中には、便ち塔を起つべし。一切の天、人、皆應に供養すること、佛の塔の如くすべし。
(開結456~460ページ)




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