顕正会の誤りについて:秘すべし 秘すべし

顕正会の誤りについて

顕正会版日寛上人本尊は顕正会自作のニセ本尊です! 顕正会版日寛上人本尊には、本物と相違する決定的な証拠を残しております。 その真実をお教えいたします。パソコンの方はメールフォームで、携帯の方は管理人宛のコメントでご連絡ください。 ただし、現役顕正会員に限ります。          

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秘すべし 秘すべし

それでは最終的な検証に入りましょう。



まずは浅井会長が引用した日達上人の御説法を原文で拝してみます。



日寛上人は『日蓮一期の弘法とは即ち是れ本門の本尊なり、本門弘通等とは所弘即ち是れ本門の題目なり、戒壇は文の如く全く神力品結要付嘱の文に同じ云々、秘すべし、秘すべし。』
と仰せになっている。ここが大事なところでございます。結要付嘱とは即ち『要を以って之を言わば云々』の御文でございます。『一切の所有の法、一切の自在の神力、一切の秘要の蔵、一切の甚深の事』の四つ、即ち、南無妙法蓮華経そのもの、また、大聖人様の建立せられたところの本門の大御本尊であります。『(戒壇は)それと同じだ』と、はっきりここで日寛上人がことわっている。だから、『秘すべし、秘すべし』と仰せになっている。『戒壇は文の如く全く結要付嘱の文に同じ、秘すべし、秘すべし』と仰せになっているのでございます。

 だから結局は事の戒壇といっても、義も含んだところの事の戒壇、全ての人に授与の大聖人様の戒壇の大御本尊まします所が、すなわちこれ事の戒壇であるはずでございます。」



これが日達上人の御説法の原文であり、赤字で示したところは浅井会長が省略した部分、青字で示した部分は浅井会長が勝手に付け加えた部分でございます。


続けて浅井会長は以下のように申します。



「猊下はいま『戒壇は文の如く全く神力品結要付嘱の文に同じ』との寛尊の御文を引き、御本尊と戒壇は同じであると仰せられましたが、依義判文抄の文意は、神力品結要付嘱の文と一期弘法付嘱書は、共に三大秘法を説き、そのうえ本尊・題目・戒壇と、説順も全く同じである、この甚妙を『秘すべし』と仰せられたのではないでしょうか。すなわち神力品においてはまず『以要言之』以下に本門の本尊を説き、『是故汝等』以下で本門の題目を説き、『所在国土』以下で本門の戒壇が説かれております。また一期弘法付嘱書では、『日蓮一期の弘法』は本門の本尊、『本門弘通』等とは所弘すなわち本門の題目、戒壇は『国主此の法を立てらるれば云々』の文のままでありますから、寛尊は『文の如し』と仰せられ、まさに釈尊から上行菩薩ヘの神力品結要付嘱も三大秘法、また日蓮大聖人から日興上人への御付嘱も三大秘法、そのうえ本尊・題目・戒壇と、三大秘法の説順も全く同じという甚妙を、ここに『全く同じ、秘すべし』と嘆ぜられたのであって、本尊と戒壇が全く同じという意味ではないと存じますが……」

猊下は沈黙された。」


(なぜ学会員は功徳を失ったか 66ページ)




この黄緑で示した部分は当にその通りなのですが、日達上人はそこから一歩踏み込んだ御指南をされているわけです。



なにゆえか…。



私が感じるに、「秘すべし、秘すべし」との仰せが相伝を連想させるのです…。以下は日寛上人の文段における記述です。



「問う、其の謂れ如何。

 答う、且く五義を示さん。

 一には結要付嘱の玄鑑に由る故に。神力品に云わく『若しは経巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於いても乃至是の中に、皆応に塔を起てて供養すべし』云々。文に『若経巻』と云うは、是れ広略二門の法華経の経巻には非ず。即ち是れ要の法華経の経巻なり。是れ即ち『以要言之』と云うが故なり。要の法華経の経巻とは、即ち是れ一幅の本尊なり。此に相伝有り云々。」


(御書文段 543ページ 法華取要抄文段)



顕正会員の皆さんも今後法華講員となれば分かるかと思いますが、日蓮正宗においては御本尊様のことは御法主上人猊下の専権事項であり、我々が踏み込むことを許されない分野でございます。



許されないというよりも、全く我々には分かりえない分野であり、唯授一人の血脈を所持された猊下様のみが知りえる極理であるということです。つまり、これが御相伝です。



六巻抄にもそれを彷彿とさせる記述はあります。


「今謂わく、前来の諸説は皆是れ文の上なり、不相伝の輩焉んぞ文底を知らん、若し文底を知らずんば何ぞ蓮祖の門人と称せんや。

 問う、当流の意如何。

 答う、此れ一大事なり、人に向かって説かじ云云。」


(六巻抄 28ページ)




「若し当流の意は事を事に顕わす、是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり。

 問う、若し爾らば其の法体の事とは何。

 答う、未だ曾て人に向かって此くの如き事を説かじ云云。」


(六巻抄 48ページ)



このように日寛上人も公に話して良い部分と、いけない部分を明確に分けているのです。

これは以下の御隠尊猊下の御指南にも見て取れます。



「今、この『本尊抄文段』の初めに列記された、創価学会では略していますが、二十三カ条の名目を見ますと、さすが日寛上人かなと感嘆いたします。なぜかと言うと、大聖人、日興上人以下に伝わる甚深の相承には、外用と内用があり、特にその内用と定められた唯授一人の血脈相承の文には、一言半句も触れておられないことであります。ここにきちんとけじめをつけられて、甚深の法門、相伝書といえども、文段に挙げる名目は外に示してよい名目に限っておられます。これを見て、創価学会の輩は「相承と言ってもこれしかないのだ。それは皆、既に発表済みで、ほかに何もない」と得意顔なのは、そこに創価学会の邪心・無慙があり、その誤りを自覚せずして喋々する「御書根本」「大聖人直結」などの意味がすべて、我見・邪悪の結果を生ずるのであります。

 重ねて言うと、この文段の「重々の相伝」と言われるものは、秘伝ながら外用の範囲であります。さらに内用において、金口嫡々唯授一人の相承があり、今、その記述内容の関連より、やむをえず示された文が公開済みなので、これを挙げることにいたします。

 『家中抄』の日道上人の伝の終わりに、

「御上洛の刻み、法を日道に付嘱す、所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり。総じて之れを謂えば内用外用金口の知識なり、別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり、甚深の血脈なり、其の器に非ざれば伝えず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付嘱す。爰に知りぬ、大石寺を日道に付嘱することを。後来の衆徒疑滞を残す莫かれ」(聖典六九五頁)

とあります。このなかの「外用」とは、外に向かって仏法の筋道を示す、従浅至深、一切の法門であり、日寛上人の挙げた名目も、大体ここに入ります。

 「内用」とは、嫡々代々の内証において用いる真の唯授一人、七百年、法統連綿をなす根幹の相承、一言一句も他に申し出すべからずと示されたる、別しての十二カ条の法体法門であります。故に、日亨上人といえども全く公開せず、極秘伝の扱いのまま、今日に至っております。

(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す204ページ)




以上のように公開してはならぬ部分というものが日蓮正宗の御法門には存在するのであり、日寛上人もまたその点はけじめをしっかりつけておられるのでございます。


つまり、冒頭の部分における「『日蓮一期の弘法』は本門の本尊、『本門弘通』等とは所弘すなわち本門の題目、戒壇は『国主此の法を立てらるれば云々』の文のままでありますから、寛尊は『文の如し』と仰せられ、まさに釈尊から上行菩薩ヘの神力品結要付嘱も三大秘法、また日蓮大聖人から日興上人への御付嘱も三大秘法、そのうえ本尊・題目・戒壇と、三大秘法の説順も全く同じという甚妙」という内容は既に日寛上人は明文化しておられるわけですから、これを「秘すべし」と仰せになられたとは考えにくい…。


むしろ、その奥にあることを「秘すべし」と指し示されていると私は拝するものでございます。


また、日達上人の御意もまたそこにあると私は感じております。




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Comment

 

いつも勉強させてもらってます(*´∇`*)

正直難しくて解りませんが~(笑)

何となく理解するようにしてまーす(´-ω-`)
  • posted by §浅葱§ 
  • URL 
  • 2013.04/22 14:18分 
  • [Edit]
  • [Res]

§浅葱§さんへ 

ご無沙汰致しております。

ブログの方が大変な御様子ですね…。

私の知人も数年前にプロバイダーから連絡があり、顕正会が訴訟を起こすので、管理人の個人情報を教えろと通知してきたがどうしましょう?と聞いてきたらしいです。

彼は“顕正会とは社会悪の団体である!”ということを、様々な社会的信頼のある情報を添付してプロバイダーに返信し、結果としてプロバイダーは顕正会の要求をはねつけたそうです。

ブログの場合、閉鎖してしまうと証拠が残りませんから、顕正会も以前はブログに対しては為す術が無かったのではと思いますが、最近はそうでもないのでしょうかね…。
ところで、日達上人のこの御指南は難しいです。

私も腹の中に落ちるまで数年かかりましたし、それを消化するとなると…、今でも果たして…?と考えてしまいます。


ただ、おぼろげながらもここまでの行程を書いておくことによって、自分自身の覚え書きにもなるかななんて考えて書き始めてみました。


またお気軽にコメント下さいませ。


やはり、難しいですね。 

御書も難しいのに
信が無いと読めない部分が多すぎて…
正直、難しいです。

でも、こうして纏めて書いてくださってあるので
とても有り難いです。
何度も何度も読み返していきます。

さくらさんへ 

私は以前、文段を引用して戒壇の事、義を検証してみたことがあったのですが、その時にある御僧侶から、


「トチロ~さん、ある意味御書よりも六巻抄や文段のほうが難しいですよ。」


とアドバイスされたことがありました。


実際に御書は、御供養された信徒さんにお礼を兼ねて御法門の一部を御教示されているものが多いですから、意外と頭に入ってきやすいものも多いですが(お弟子さん方に出されたお手紙は難しすぎて、私もほとんど理解不能です…。)、六巻抄や文段はむしろ御僧侶方の教学のために遺されているように私には思えます…、それゆえ遠慮が無いといいますか…、縦横無尽に法義を振りかざしてバンバン斬っていきますので、理解するためには基礎教学から学んでいかないといけない必要に迫られ、更に難解になっているのでしょうね。

でも、面白いもので、常に六巻抄を傍らにおいて24時間その文章を頭に思い浮かべていますと、突然点と点が結ばれて一本の線になり、それがまた面となり、面と面がつながって立体感を持ってくるようになると思います。

そうなるとしめたものだと思います。

とはいえ、やはり難しすぎてはしょうがないですから、話もクライマックスでもありますし、この後はおもいっきり噛み砕いて書いてみましょうかね…。


「噛み砕きすぎて別物になっているぞ!」


との御僧侶方からのお叱りの声が聞こえてきそうな予感がしますが…。(笑)


「日寛上人はそこまでは言ってないと思いますよ。」


との評価を頂いた前科持ちの私にとっては少し怖いのですが、勇気を持ってやってみますね。


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