顕正会の誤りについて:御書解読の難しさ(送り仮名について)

顕正会の誤りについて

顕正会版日寛上人本尊は顕正会自作のニセ本尊です! 顕正会版日寛上人本尊には、本物と相違する決定的な証拠を残しております。 その真実をお教えいたします。パソコンの方はメールフォームで、携帯の方は管理人宛のコメントでご連絡ください。 ただし、現役顕正会員に限ります。          

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御書解読の難しさ(送り仮名について)

昨晩は平成新編御書の発刊の辞を掲載させていただきました。

御書編纂という事業がいかに難しいことなのかが、おぼろげながらも感じられたのではないかと思います。



といっても、顕正会の皆様には今一つピンとこないかと思いますが、これは実際に自身で原文に当たるようになってくると実感が湧いてくると思います。


私もそうそう多くはありませんが、少なからずそういう体験をしたことがありました。

顕正会の皆さんにも親しみやすいよう、顕正会関連でお話をさせていただきます。


浅井会長の書籍には以下の発言がございます。


「 しかし誑惑というものは、弘法の「面門俄かに開いて」の故事のように、必ず馬脚を露わすものである。

 阿部教学部長は「仏法が仏法の使命に生き、王法がその理想実現に専心していくとき、結果として自然と冥合する」というごまかし解釈を正当化そうと、減劫御書を引いて次のように云ったものである。

 「減劫御書に『智者とは世間の法より外に仏法を行(ぎょう)ず』との仰せがある。……したがって、智者というのは、世間の法よりほかに仏法を行じているのである。『世間の法より外に』ということは、世間の法は世間の法として行じ、その根底に仏法を行じているということである」と。

 これはいったいどうしたことか。御書を読み違えて正反対の解釈をしているではないか。「世間の法より外に仏法を行(ぎょう)ず」ではない、「世間の法より外に仏法を行(おこな)わず」と読まなくてはいけない。御真蹟は「行す」とあって、送り仮名も濁点も省略されているから、どちらにも読める。しかし「行(ぎょう)ず」と読んでは意が通じない。ゆえに大石寺発行の昭和新定版では送り仮名を入れて「行ハず」となっているのである。

 この文意は、智者というのは世間の法以外には仏法を行(ぎょう)じないすなわち世間の法として行(ぎょう)じていることが、そのまま仏法の道理に叶っているということである。」

(なぜ学会員は功徳を失ったか 150~151ページ)


ここで浅井さんが引用している御隠尊猊下のお言葉とは、顕正会で「悪書Ⅰ」と称するところの「国立戒壇論の誤りについて」に書かれている内容です。

先ずは原文を見ていきましょう。


「なお、大聖人の御書の中には、仏法が、社会のいかなる面に影響を与えていくかを示唆された御文が散見される。

 一例をあげるならば、減劫御書に「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを太公望出世して殷の紂が頸を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でで代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は、しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(全一四六六)との仰せがある。

 この御文は、法華経の「実相と相違背せず」これを釈した天台の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の経釈を引用して具体論を述べられたものである。

 世間の法が、実相たる妙法と違背しないというのが、法華経の精神である。それは、世間の法の根本が、人々を幸福にするためであり、この、人々を幸福にするという精神が仏法だからである。

 したがって、智者というのは、世間の法よりほかに仏法を行じているのである。「世間の法より外に」ということは、世間の法は世間の法として行じ、その根底に仏法を行じているということである。」

(国立戒壇論の誤りについて)


いわゆる“送り仮名”の問題ですね。

原文には書いていない送り仮名をどうつけて解釈するかが問題なんですね。

つまり、上記のごとく「行ず」と読むか、「行わず」と読むかでで抜いた部分のように正反対になってしまうということです。


しかし、笑っちゃうのが、結論であるところので抜いた部分がまったく同じことを言っているということなんですね…。(爆)


これじゃあ、反論にも何もなっておらんだろうが!っていうことです。


話はそれてしまいましたが、送り仮名一つとってみても大聖人様の御意を深く拝し、前後の文との整合性をたもちつつ、かつ大石寺に伝わる御法門の上から正しい読み方をしなければいけないということなんですよ。


これって一信徒ではなかなか出来ないことですよね。


次回は句読点についてお話してみます。


これは大聖人様の御金言ではありませんが、日寛上人の依義判文抄(六巻抄)を題材にしてみましょう。

そう、浅井武勇伝の一つである昭和45年4月22日臨時時局懇談会を斬ってみます。








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Comment

 

難しいですね!
何だか本当に難しいです。

  • posted by ゆきみ 
  • URL 
  • 2013.03/14 09:30分 
  • [Edit]
  • [Res]

ゆきみさんへ 

たった送りがな一つだけなんですが、それをどうつけるかは色々な角度からの検討が必要なんでしょうね。

上記の浅井さんのイチャモンは、そういった細かな部分を突いてきたものです。

次回書く件も、句読点をどうつけるかという細かな問題を指摘してきたイチャモンです。

パッと見は浅井さんは正論を吐いているように見えるのですが、日達上人は一歩踏み込んだ御説法をされているんですね。

そこまでを理解するには、ある程度の基礎的な戒壇論を事前に理解していないと難しいですし、おそらく殆どの顕正会員には無理でしょうね。


日達上人が浅井さんの質問に沈黙されたというのは、この男にどう説明したら理解させることが出きるか。と、一瞬考えられたのでしょう。


次回から書く件は非常に難しい案件ですので、私もどうやったら池上彰さんのように話せるかを現在試行錯誤中です。


また気軽にコメント下さいませ。


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