顕正会の誤りについて:正本堂の意義

顕正会の誤りについて

顕正会版日寛上人本尊は顕正会自作のニセ本尊です! 顕正会版日寛上人本尊には、本物と相違する決定的な証拠を残しております。 その真実をお教えいたします。パソコンの方はメールフォームで、携帯の方は管理人宛のコメントでご連絡ください。 ただし、現役顕正会員に限ります。          

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正本堂の意義

正本堂を御遺命の戒壇と日達上人は認めた。


ゆえに宗門は御遺命を破壊した。


これが顕正会の理論です。



しかし、日達上人は正本堂を御遺命の戒壇とは認めていない。


これが真実です。



しかしながら、単に御宝蔵の延長、奉安殿の延長の建物に過ぎないと、断言するのは間違いです。


日達上人は「因の上から広宣流布の姿が顕れた。」ということを、正本堂建立の意義に認められました。


これは果としての広宣流布の暁に建立される御遺命の戒壇とは、全くの別物ではあります。


言うなれば、学会を慰撫教導する上でのお言葉ではあります。


けれども、そういう事実はあるのだ、ということを我々は真っ正面から受け止めた上で、正しく正本堂の意義を論じていかなくてはいけないのであります。


何事にも平等に公平に見ていく姿勢こそ、多くの顕正会員を正法に導くポイントではないかと私は思うものです。





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Comment

 

顕正会員は、他宗教の信徒を差別します(T_T) 皆同じ人間なんです(T_T)相手の立場に立って、考えなければいけません(T_T) そうしなければ、反目しあうだけで、何も生まれません(T_T) 差別されても、こちらは仏心を湧かせ、対して行きたいものです(T_T) 法華講員は、諸天や大上人様の代弁者なのですから(^-^)
  • posted by ドンチャン 
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  • 2011.12/14 09:19分 
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誹謗する者の矜持とは 

対論は難しくて僕には手も足も出ないので、所感で失礼いたします。

今の僕は、顕正会も学会も法華経の迹門のように感じています。学会は相当教義の改変や御本尊謹製を行い、顕正会も教義改変に手を染め御本尊謹製の噂…。それでも、大聖人のお名前や仏法を説きます。

本門から迹門を破する時は、本無今有というそうです。

学会も顕正会も、特に顕正会は戒壇の御本尊様の広宣流布時の相貌に執着がありますから、余計にあわれなんですが、宗門を誹謗したり、距離が開くほど根無し草のような姿になっていくように思われます。

なぜなら、彼らの信仰の根本はと問われれば、日蓮正宗富士大石寺信徒であったことを隠せないのですから。

忘恩という言葉がありますが、恩とは因の下に心と書きますね。自分の因って来るところに心を偲ばせることですから…。根無し草とは儚い存在と思います。

 

ドンチャンさん、御法主上人の御指南で、同じような内容のものがあります。

いまは仕事で外出しておりますので、帰宅したら調べてアップしますね。
  • posted by トチロ〜 
  • URL 
  • 2011.12/14 12:51分 
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ポリ銀さんへ

本門と迹門ですか。深いですね。

迂闊なことを書くと、また外野から揚げ足を取られるので、これもまた帰宅して本門と迹門を勉強し直して書かせて頂ければと思います。
  • posted by トチロ〜 
  • URL 
  • 2011.12/14 13:00分 
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ドンチャンさん 

御法主上人猊下の御指南をご紹介します。

「 法を説く心得として「数息観」と「不浄観」ということがあります。洗濯屋さんというのは、いつも物を綺麗に洗っているのです。ですから、洗濯屋さんには「汚い物はいけない、綺麗にしなければ」という「不浄観」を教えれば、洗濯屋さんはすぐに理解できるのです。ところが、鍛冶屋さんに「不浄観」を教えても、鍛冶屋さんはいつも真っ黒になりながら一生懸命仕事をしているわけですから、「汚い物はいけない」などと言っても、理解しにくいわけです。ですから、鍛冶屋さんには「心を乱さず、呼吸を整える」という意味の「数息観」を教えるのです。このように、法というのは、相手によってきちんとそのところを弁えて説かなければいけないということを言っているわけです。

 とはいえ、あまりに随他意のほうにいってしまうと、これもまたおかしくなってしまうのです。ですから、我々が折伏するときには、相手の機根に応じ過ぎてしまって、だんだんと摂受になってしまうことのないように気をつけなければなりません。

 御承知の通り、折伏というのは相手の間違いをしっかり正していくことです。ですから「大聖人様の仏法でなければ幸せになれませんよ」と言うときに、同時に「あなたの持っている信仰は間違いですよ」ということをしっかりと言ってあげることが大切なのです。

 別に喧嘩をする必要はないのです。どうかすると喧嘩腰になってしまうような人がいるかもしれませんが、そうではないのです。もっと穏やかに言えばいいのです。謗法の根源をきちんと教えてあげて「その考え方は間違いですよ」と教えてあげるのが折伏なのです。」

(折伏要文 81~82ページ)



  • posted by トチロ~ 
  • URL 
  • 2011.12/15 06:21分 
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ポリ銀さん 

日蓮正宗は本門であり、顕正会は迹門みたいなものである。

確かに上手い譬えですね。

爾前経において説かれていない二乗作仏を迹門で説かれ、久遠実成を本門に於いて説かれる…。

しかしながら、久遠実成を説かれる以前の迹門に於いては、たとえ二乗作仏が説かれていたとしても、仏の本地が未だ説かれていないゆえに、誠の仏陀は顕れてはおらず、実は二乗作仏も確立はしていない。

これが本無今有ということですよね。


これを顕正会に当てはめるならば、大聖人様と戒壇の大御本尊様を仏様と捉える。これは非常に良いことなのですが、なにゆえ仏様なのかと言うところにまで理解が及んでいない。

即ち、

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ。」(平成新編御書 563ページ)

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」(平成新編御書 685ページ)

この“魂魄”、“日蓮がたましひ”が、すなわち御本仏の御内証なのであり、それを唯授一人の血脈として歴代の御法主上人猊下に受け継がれていること。

その御境涯の上からの御本尊書写なるがゆえに歴代御法主上人猊下の顕された御本尊様も仏様になるのだという道理。

そして、その御境涯の上からの御指南には誤りがあるはずがないという結論にまでは、考えが及んでいないということなのでしょう。

つまり、ポリ銀さん仰せの通り、「本無今有」、大聖人様、戒壇の大御本尊様を信じているといっても、それはかけ声だけであり、実態は理解していない。

最終的に三宝一体の義からは謗法を犯してしまっているのだということなのでしょうね。

かわいそうな顕正会員達に早くこのことを教えてあげたいものですね。


  • posted by トチロ~ 
  • URL 
  • 2011.12/15 06:58分 
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