顕正会の誤りについて:顕正会は何故、戒壇の事と義の解釈を誤ったのか?

顕正会の誤りについて

顕正会版日寛上人本尊は顕正会自作のニセ本尊です! 顕正会版日寛上人本尊には、本物と相違する決定的な証拠を残しております。 その真実をお教えいたします。パソコンの方はメールフォームで、携帯の方は管理人宛のコメントでご連絡ください。 ただし、現役顕正会員に限ります。          

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顕正会は何故、戒壇の事と義の解釈を誤ったのか?

この本題に入る前に、あらかじめ言っておかなくてはなりませんが、ここから先はあくまでも私の推測によるものです。




法華講員である私の立場としては、本来は指導教師たる御住職様のご指導の下に、論を展開していかなくてはならないのは重々承知しているのですが、現在の宗門では一貫して、戒壇の大御本尊様おわします所は事の戒壇であると意見が統一されております。しかしながら、顕正会の浅井会長に洗脳されきっている会員たちには、宗門での法義を素直に学ぼう、素直に受け入れようという性質が明らかに欠如いたしております。ゆえに、顕正会が解散処分になった当時の状況を客観的に判断し、私の推測を元に顕正会の誤りを考えていこうと存する次第でございます。




私が顕正会を辞め、法華講員となって、事の戒壇の本当の意味を調べ始めてから、ずっと疑問だったことがあります。それは、何故顕正会は相伝の上から日達上人がお説き遊ばされた戒壇の事と義の定義を素直に受け入れられないのかということでした。





本来、正宗の信徒であれば、御法主上人の御指南は大聖人の御指南と拝して従うのが常識であります。しかし、顕正会は御指南に素直に従うことが出来なかった…。それは何故か…?これは、また話が長くなるので、後日にゆずりますが、もう一つ…、顕正会は何故ここまで事の戒壇は広宣流布の暁の本門寺の戒壇のみであると主張して譲らないのか…。



そして、思索を繰り返していくうちに、その理由が徐々に見えてきたのであります。



それは・・・・・・・・・、



当時の宗門内外では事の戒壇について、顕正会の主張するように教えられていたのではないか?という一つの仮定であります。



正本堂の件でもめていた当時、私はまだ幼少でした。もちろん両親も信心はしていなかったので、当時の宗門の内情は全く知り得ません。ですから、当時の状況を知るためには御住職様や講頭さんに聞くか、当時創価学会や妙信講にいた人の意見を聞く以外にありません。しかしながら、宗門側の人に聞けば、事の戒壇の定義は古来より変わっていません。との答えが返ってきます。




おそらく、それは真実だと思います。これも後日お話しますが、当時は聞く側、いわゆる在家の人々の法義を学ぶ姿勢が少しばかりずれていたように感じるのであります。だから、話す側が正しい法義を伝えても伝わっていなかったのだと思います。




話は戻ります。要は何らかの事情で顕正会員は事の戒壇の定義を、現在主張している内容で学び、そして、それを疑問に思う事がない状況であったのだと思います。いわゆる、宗門内部の世論が顕正会の主張と同じように形づくられていて、それが常識となっていたのだと思います。



当時は創価学会の全盛期であったことは顕正会の皆様もご認識されておられることかと思います。この創価学会の他に与える影響は相当に大きかったのでは無いかと思うのです。当に創価学会あっての宗門である。学会が主であり、宗門が従であると誰もが信じて疑わなかった程の存在であったと思うのです。それは、ただ単に数や資金力にとどまらず、教学の面でも学会主導の風潮が蔓延していたと思うのです。



ですから、学会以外の講中も学会を参考にし、また教学の面でも学会の資料を参考にして疑わなかったのではないでしょうか?



本来は信仰の姿勢についても教学の面でも、すべては所属寺院の御住職様のご指導に従い、その師弟の筋目に従って学んでいくのが正宗の伝統であります。ですから、妙信講は当時の所属寺院の御住職様のご指導に従ってしかるべきなのです。しかしながら、おそらく浅井会長の目は創価学会にしか向いてなかったのではないでしょうか?



話が横道にそれてしまいましたが、当時の創価学会では事の戒壇と義の戒壇の立て分けは、顕正会の主張と全く同じに教えられていたのです。換言すれば、信徒の大多数は顕正会の主張通りに事の戒壇をとらえていたことになります。ですから、浅井会長が事の戒壇の定義にこだわり続けるのは当たり前なのであります。また、池田大作氏が正本堂を事の戒壇と御法主上人に言わせしめたことをもって、広宣流布が達成したと小躍りしたのは、これゆえなのであります。



しかれば問題は、当時宗門の御僧侶は戒壇の事と義の定義をどのように講義されていたかということであります。



もし、事の戒壇を広宣流布の暁の本門寺の戒壇のことで、事の戒壇とはこの一カ所のみだとの講義をしていたのなら、浅井会長が異議申し立てをしたこと自体は間違ってないということです。…
この時点までは…。




この当時にどのように御僧侶が講義されていたかは、当時法華講員だった者、および当事者である御僧侶方しか知り得ません。しかしながら、もし顕正会の主張と同じ定義を御僧侶方が講義していたとしても、その後顕正会が破門されたことは確たる理由のあること、破門されてしかるべきことなのであります。



さて、何故に顕正会が破門されてしかるべきだったのか?顕正会の皆さんは何故に当時、宗門より破門されたかをはっきりと説明できますか?正義を叫ぶ顕正会が当時の創価学会と宗門は邪魔だったから…。なんて、真面目に信じ込んでいるのではないでしょうか。



ここで、はっきりと申し上げておきます。顕正会が破門された本当の理由は御法主上人に信をとれなかったからであります。



御法主上人は言うまでもなく、大聖人様から日興上人、日目上人と綿々と続く御相承を受けられた方であります。



よって、大聖人様も「代々の法主ことごとく日蓮なり」と申されております。その御身は単なる現代の一人の御僧侶ではありますが、その内証、つまり中身は、言い換えれば法門に関して発するお言葉、御指南は大聖人様のそれと全く同じである。大聖人様の仰せであると拝するのが、正しく正宗の信徒としてのあるべき姿なのです。



しかしながら、顕正会の浅井会長にはそれが出来なかったのであります。そして、あろうことか御法主上人が己義を構えたなどと言い出したのであります。




これはすでに正宗信徒としての姿勢を完全に踏み外しているものなのです。破門されても仕方がないのです。



非は浅井会長自身にあったのです。



****************************



以上が当時のブログ記事です。

冒頭にも書いてあるように、当時はあくまでも私個人の推測ではありました。しかし、図らずもその数か月後に御隠尊猊下からこの答えが御講義されたのであります。


「そこで日達上人が四十五年四月二十二日の時局懇談会および四月二十七日の教師補任式において、正本堂はまだ出来ていなかったけれども、その定義についておっしゃったのであります。これは、御本尊が事であるから、御本尊のまします所はいずこなりとも、場所に関わらず事の戒壇であるということを御指南になったのです。

 我々は事の戒壇というと、やはり『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇であると思い込んでいたところがありました。そこで、日達上人から戒壇の大御本尊のまします所が事の戒壇だという御指南があったので、そのことについて、私と観妙院日慈上人が日達上人のところへお伺いに行ったことがあるのです。するとその時に、「これは御相伝である」ということの上から、特に「御戒壇説法」をお示しになったのであります。すなわち「御戒壇説法」において、


  「本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。また、その本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、もしこの霊場に詣でん輩は無始の罪障、速やかに消滅し云々」

ということがあるのです。そして、もう一つには日寛上人の『法華取要抄文段』の、

  「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段五四三ページ)

という御文を引かれておりました。そこでは「根源」ということは言われなかったけれども、そういう意味から事の戒壇ということを示されたのであります。これらは無論、日達上人がお書きになった文ではなく、別の御先師がお書きになったもので、それを当時、総監であった観妙院日慈上人と私に見せられて、日達上人は「こういうような文からいって、事の戒壇と言ってもよいのだ」と仰せになったのです。だから、御戒壇様のまします所が事の戒壇という意味になるのであります。

 そうすると、日寛上人が仰せの『三大秘法抄』の「事の戒壇」と、御戒壇様まします所の「事の戒壇」の二つがあることになり、紛らわしいという意味も出てきます。実際、浅井もそういうことを、そのあとにおいて盛んに言っていたわけです。しかし、日達上人は「現時における事の戒壇」というように仰せられているのです。つまり、『三大秘法抄』の戒壇は未来における事の戒壇であり、現時における事の戒壇は御戒壇様がおわします所で、そこに大勢の人が参詣し、真剣な信心・唱題・折伏によって即身成仏の大きな功徳を得ることが、そのまま事の戒壇であるという意味の御指南もありました。このほかにも色々あったのですが、簡単に言えば、こういうお話があったのです。」  (大日蓮平成16年12月号 35~36ページ)



と、このようなお言葉があり、私の推測は単なる下衆の勘繰りではなかったということが判明いたしました。


また、その翌年には複数の御僧侶方から顕正会に関する資料を頂けるような環境に恵まれ、そこにおいてもこの推測の裏付けが出来るようなお言葉が散見されたのであります。


これにより、昭和40年代の正確な判断ができるようになったのです。







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Comment

浅井さんの慢心 

顕正会の正当性は昭和48年までが完全にシロだったというのが、今現在の僕の見解です。と、いいますのもスッタモンダのあげく、妙信講は昭和48年には登山も末寺での御授戒も許されています。

しかも、公式の文書や表向きの見解では、学会から「正本堂は広宣流布の暁の事の戒壇堂ではない」との言質を取ることにも成功しています。

ただし、当時の宗門・学会周辺者は誰しもが、池田さんの慢心と学会の増上慢に薄々感づいていました。浅井さんは、ここで自分の功績に慢心して暴走してしまったのでしょう。当時の浅井さんと同い年くらいになった、今の自分にはこの四十路の増上慢という気分がわかります。

もう少し老獪さが欲しかったといえば叱られるかもしれませんが。坊ちゃんの哀しさと、池田さんの希代の奸智には程遠い無邪気さとでもいうのでしょうか。

僕は顕正会に甘いので、平成10年転回説を黙認していますが、デモや襲撃はいくらなんでも…除名になっちゃうよね…とは思っています。でも、昭和1ケタって意外に勘違いさんが多いのも事実です。

今の教学的関心は本国土問題ですね。この国が本国であり、戒壇の御本尊様に天照大神と正八万大菩薩が、厳然と座を占められているということです。一閻浮提総与の御戒壇様に日本国守護の善神がおられるのか?この辺に何か意味があるのではないかと下衆の勘ぐり中です。

ポリ銀さんへ 

そうですね。色々な解釈はあるでしょうが、除名処分になった時が信徒としてダメ出しされた時だと私は思います。

成仏出来ない程の瑕疵がその人に存在し、かつそれを反省改善する意思も無いと認められたからこその除名処分だと私は思うのです。

大義名分はこちらにあれども、それを主張する方法に問題があれば、それは間違いになります。

およそ妙信講の問題とは、そういった性格のものだと思います。


さて最後の問題ですが、私は不勉強なため難しいことは分かりませんが、昭和天皇が御遷化された時、ならびに平成5年の成人式においての御隠尊猊下のお言葉を拝すると、勉強になりますよ。
  • posted by トチロ~ 
  • URL 
  • 2012.08/09 22:09分 
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はじめまして 

トチロ~様、はじめまして。
地方の末寺所属の元顕正会員の風月といいます。
前々からトチロ~様のブログなど拝見させて頂いており、勉強させて頂いておりました。

私が最近特に思う事は、妙信講から顕正会に変更、つまり日蓮正宗から破門になった段階で、戒壇の大御本尊様からの血脈は断絶された。
つまりは、戒壇の大御本尊様の願主であられる熱原の法華講衆の一員でなくなった、という事になりますので、いくら顕正会員が戒壇の大御本尊様を遙拝しようが、功徳はおろか、成仏はできる訳ないのだ、という事を今更ながら思っていました。

御戒壇様は大聖人様が、一閻浮提全人類に永久に総与なされましたが、その条件は、あくまでも法華講衆にならないとだめなのだ、なぜなら、御戒壇様と熱原の法華講衆は一体化しておられるのだから、と、思うのです。そして、その条件のもう一つとして、菩提寺となる末寺住職様から御授戒を賜る=日蓮正宗の血脈ふぞく(←漢字変換できず)の御法主猊下様からの認可を受ける事で、法華講衆になる事ができるのではないでしょうか?と。
義とか、事の論議よりも、国立戒壇云々の論議以前よりも、顕正会員に言いたいのは、この事なのですが、悲しい事に、顕正会員は浅井会長の偽物武勇伝を信じ、宗門学会のせいで破門になった!の一点張りでして…顕正会は唯一正しい団体だから、御戒壇様に通じているのだ、と言い張るのです…
残念です。
長々と失礼致しました。
難しい教学は私にはまだまだ理解不可能ですが、これだけは声を大にして、顕正会員に言いたいのです…
  • posted by 風月 
  • URL 
  • 2012.08/09 23:41分 
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  • [Res]

風月さんへ 

風月さん、はじめまして。

今後ともよろしくお願い致します。

ところで私も風月さんと同様に考えております。
時々折伏の場ではお話するのですが、“認める”ということがこの信仰においては大事なことだと思うのです。

大聖人様は日興上人を次の御法主として“認め”られました。日興上人は日目上人をその次の御法主として“認め”られました。日目上人は日道上人へ、日道上人は日行上人へと、次々と“認める”という行為のもとで現在は御当代御法主日如上人猊下に血脈はとどまっておられます。

その上で日如上人猊下は各末寺の御住職様方を、そのお寺の御住職として“認め”られております。

更に私どもはこの御住職様方から信徒として“認め”られている訳です。

つまり、私どもの身より“認める”という行為をさかのぼっていけば、最後は大聖人様に行きつくのですね。


この連鎖が切れていない者のみが正しく大聖人様の弟子檀那と呼べるのだと思います。


そういった意味からは、浅井さんはじめ顕正会の方々は戒壇の大御本尊様からの功徳法水は流れ通わないのですよね。


悲しいことですが、これが現実です。


純粋な顕正会員の方々には早くこの真実に気がついて貰いたいものですね。
  • posted by トチロ~ 
  • URL 
  • 2012.08/10 07:45分 
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  • [Res]

 

名称変更の日と、解散処分の日と、学会本部襲撃事件の日
これを順番に並べればよくわかる筈なんですけど
  • posted by 破門の件 
  • URL 
  • 2013.10/27 23:10分 
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  • [Res]

破門の件さんへ 

はじめまして。

何年かぶりに正真正銘の顕正会員らしき方にお越しいただけ心より感謝申し上げます。

こちらのブログは大人の方しかおりませんので、ゆっくりとお話を交わせていけると思います。

是非とも会話を重ねてより深く突っ込んだところまで結論を出せたら有り難く思うものです。


さて、“破門の件さん”のコメントの趣旨から確認したいのですが、「名称変更」とは“戒壇の大御本尊様おわします処は現時における事の戒壇と言える。」という一連の日達上人の御説法を指す、と理解してよろしいでしょうか?

そのうえで、それらを踏まえて異議を唱えた妙信講を解散処分に処したのが、昭和49年8月12日。

学会本部を襲撃したのは、その後の昭和49年10月4日である。

すなわち、学会本部を襲撃したのは「破門された後だ。」と、こう言いたいのでしょうか?

その辺りを教えて頂けないでしょうか。


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